2024年2月5日(月)

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聖書一日一章    歴代誌第二 27章

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主の目にかなうことを行った。(2節)

イスラエル南部のユダ王国では、ウジヤ王が死に、その子のヨタムが王になりました。ヨタムは、ユダ王国の王の中で、あまり記憶に残らない王です。ベテランのクリスチャンでも、その名を覚えている人はほとんどないでしょう。それは当時の人々も同じだったようで、列王記ではたった7節、歴代誌でもここの9つの節しか割かれていません。しかし、よく読むと、かなり良い王です。2節には、「彼は、すべて父ウジヤが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った。ただし、主の神殿に入ることはしなかった」とあります。信仰的だった父のウジヤと同じように、神を重んじ、神のみ心に気を配り、それに従って歩みました。しかも、ウジヤは晩年、高ぶり、祭司しか許されていない香を焚く儀式を自ら行おうとして神に打たれるという失敗をしましたが、ヨタムは一生そんな失敗をしていません。さらに、王の仕事の面でも業績をあげています。エルサレムの神殿の門を建て、城壁にやぐらを建て、都を整備し、町を建て、城塞を築き、アンモン人に勝利し、いろいろな面で国を強めました。

そんな良い王なのに、聖書であまりほめられていないばかりか、その業績もほとんど書かれていません。なぜか、記憶に残らない人だったのです。ヨタムだけでなく、いつの時代にも、信仰深く良い働きをした人で、なぜか記憶に残らない人はいます。たとえば、キリストの弟子のアンデレは、弟子たちの中で最初にイエスを救い主だと信じた人で、生涯キリストに忠実に歩みましたが、福音書ではほんの少ししか書かれていません。私たちの間でも、信仰深く良い働きをした人で、すばらしいクリスチャンだとして記憶に残る人もあれば、記憶にまったく残らない人もあります。少々寂しい現実ですが、人々の記憶に残らないことが、主に覚えられていないことではありません。主はその人のことを正しく見て、正確に覚えておられます。主を愛し、主に身をささげて、だれにも記憶されなかったとしても、天国で主は言われます。「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。わたしの喜びをともに喜んでくれ。」

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