2024年2月10日(土)

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聖書一日一章    歴代誌第二 32章

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私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる。(8節)

イスラエル南部のユダ王国では、敬虔なヒゼキヤ王が宗教改革を行い、礼拝を正常化しました。その後、アッシリアの王が大軍を率いて攻めてきて、エルサレムを包囲し、アッシリアの将が城壁の外から演説しました。ヒゼキヤは頼りにならない、どの国もわれわれから逃れられなかった、ヒゼキヤも彼が信じる神も自分たちを救い出せないと。しかし、ヒゼキヤと預言者イザヤが祈ったとき、奇跡が起きました。21節には、「主は御使いを遣わして、アッシリアの陣営にいたすべての勇士、指揮官、隊長を全滅させた」とあります。何が起こったのかはわかりませんが、神がなさったことだけは確かです。

さて、ヒゼキヤは、神を信頼し、神がアッシリアを撃退してくださると信じていました。7節と8節で彼は言います。「強くあれ。雄々しくあれ。アッシリアの王や、彼とともにいるすべての大軍を恐れてはならない。彼とともにいる者より大いなる方が、私たちとともにいてくださる。」たしかに自分たちが戦うのであれば、勝ち目はありませんが、無敵の万軍の主なる神が戦われるのなら、勝てるのです。これこそ、私たちが困難に直面するときに持つべき信仰であり、姿勢です。

それはそうなのですが、今日は、ヒゼキヤが、アッシリアが戦いを仕掛けようとしているのを察知して、しっかり備えていたことに気づきました。4節には、敵に水の供給源を利用されないように、「すべての泉と、この地を流れている川をせき止めた」とあります。さらに、5節では、「王は奮い立ち、崩れていた城壁をすべて改修し、その上にやぐらを立て上げ、その外側にもう一つの城壁を築いた。さらに、大量の投げ槍と盾を作った」とあります。アッシリアが攻めて来るのを想定して、籠城戦の備えを全部していました。このように、実際的に戦いに備えることと、神が戦われると信じることとは、相いれないことではありません。備えることと備えに頼ることとは違うからです。備えに頼ることは愚かなことです。頼れるのは、全能にして無敵の神だけです。それでも、備えはきちんとすべきです。神が戦われると信じていても、今できること、今すべきことはいくらでもあります。

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