2024年2月12日(月)

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聖書一日一章    歴代誌第二 34章

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泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。(27節)

ユダ王国では、神を敬わないマナセ王が外国の神々を無制限に受け入れ、それが彼の治世の50年以上も続いたので、人々の心がすっかり神から離れてしまいました。そんな時代にマナセの孫として生まれて来たヨシヤは、祖父とは対照的に信仰的な生き方をしました。8歳で王になり、16歳で神を求め始め、20歳で偶像を取り除く運動を始めました。彼がそんな生き方をしたのは、祖父が晩年、アッシリア軍の捕虜となったことが、反面教師として大きかったと思います。26歳のときに、荒れていた神殿を整備させたところ、「主の律法の書」が見つかりました。創世記から申命記までの5つの巻物だと思われますが、忘れられていたのです。ヨシヤは自分たちがその言葉を長年破ってきたことに気づき、ショックを受けました。そこで、ある女預言者に神のみ心を伺ってもらったところ、神の「わたしはわざわいをもたらすが、あなた自身はへりくだったので免れる」という言葉を受けました。

さて、ヨシヤがどんなに神に忠実に歩み、国民を神に立ち返らせようと努力しても、残念ながら、ユダ王国の滅びは不可避でした。列王記第二20章で、預言者イザヤはヒゼキヤ王に、「あなたの家にある物がすべて、バビロンへ運び去られる日々が来る。何一つ残されることはない。息子たちの中には捕らえられて、バビロンで宦官となる者がいる」と宣言しています。また、その後のマナセ王の時代にも、列王記第二21章12節で、神が「わたしはエルサレムをぬぐい去る」と宣言されました。このように国が滅びに向かっている時代に、信仰者として生きることはつらいことです。人々が神に立ち返るように、あるいは、国が神に祝福されるように、どんなに努力しても実を結ばないのです。ボートが急流で流され、漕いでも漕いでも滝つぼに向かっていくようなものです。ヨシヤは、そんな中で、葛藤、摩擦、落胆、悲しみを感じたでしょうし、涙なしにはやっていけなかったでしょう。そんな彼に、神は27節で、「わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる」と言われます。私たちもそんな時代にいるかもしれません。そうだとしたら、悲しいことが多いのは当然です。そんな私たちに、主は、「わたしはあなたの涙を見た」と言ってくださるのです。

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