2024年4月3日(水)

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聖書一日一章    ヨブ記 16章

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もし、あなたがたが私の立場にあったなら。(4節)

ヨブの不幸について、3人の親友が一人ずつ発言し、それぞれにヨブが答え、一巡して再びエリファズが発言しました。趣旨はこれまでと変わらず、人間は神の前に正しくありえない、その悪の報いとして不幸にあう、改めよ、そうすれば幸せが戻ってくるというものでした。ヨブはそういうことは百も承知で、それでも神のお取り扱いに納得できずに苦しんでいるので、理解しないで同じ主張を繰り返す親友たちにいら立ちます。また、神にも、納得できないような取り扱いをなさることに激しく抗議します。「神は私を疲れ果てさせた。」「神は激怒して私を攻めたてる。」「私は平穏でいたのに、神は私を引き回された。」「神は私を打ち、私に襲いかかられる。」

しかし、19節では、「今でも、天には私の証人がおられます。その方が、神にとりなしてくださいますように」と言います。神の前で、ヨブの正しさを証明し、とりなしてくれる天の証人とは、いったいだれのことでしょうか。ヨブは、キリストのことをまったく知りませんでしたが、直感的にぼんやりと、そういう方がおられると思っていたのでしょう。驚きです。

さて、ヨブは4節で、「私も、あなたがたのように語ることができる。もし、あなたがたが私の立場にあったなら」と言います。友人たちは、不幸の原因はこうだと分析したり、こうすればよいとアドバイスしたりしていましたが、それは上からの目線です。ヨブは、自分が順調に行っていて、「あなたがたが私の立場にあったなら」、同じように見、同じように言えたと、悔しそうに言います。私ももっと未熟なときに、泥沼に陥った人に、良かれと思って、問題を分析したり、アドバイスしたことが何度もあります。しかし、考えてみればおかしなことです。泥沼に陥っただけで、問題の多い人になり、順調に行っているだけで、さばく立場になるというのは。それは、順調に行っている人の高ぶりではないでしょうか。順調に行っているとすれば、それは神の恵みにより憐れみによるのであって、人としては何の違いもないのです。へりくだりましょう。

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