2024年5月12日(日)
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聖書一日一章 詩篇 13篇
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主よ。いつまでですか。(1節)
ダビデは2節で、「敵が私の上におごり高ぶる」と言うように、戦いの中にあり、負けそうでした。3節で、「私が死の眠りにつかないように」と言うように、死ぬかもしれない状況でした。そんな中で、「あなたは私を永久にお忘れになるのですか」、「一日中、悲しみがあります」と言います。神が忘れておられるように感じ、とても悲しかったのです。しかし、5節では一転して、「私の心はあなたの救いを喜びます。主が私を良くしてくださいましたから」と言います。祈りがかなえられ、危険が去ったのかもしれませんし、状況は変わっていなくても、信仰によって勝利を確信したのかもしれません。
さて、1節では、「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか」と言います。この言葉からは、神の助けをほとんどあきらめているかのように聞こえます。私たちも、何かのために祈っていても、困難があまりに大きいと、こりゃ無理だと、信仰を抜きにしてあきらめてしまうのではないでしょうか。しかし、「いつまでですか」という問いは、そう間単には実現しないという予感を含みながらも、神への信頼に立っています。
まず、「いつまでですか」という問いは、神には可能だという信仰から出ています。というのは、私たちがたとえば、道路が崩れ、通行できなくなったとして、市に、道路が崩れたままなのは「いつまでですか」と尋ねるとすれば、市には道路を修復することができると思っているからです。同じように、神はできると信じているのです。また、「いつまでですか」という問いは、神は実現しようと思っておられ、いつかは必ず実現してくださるという信仰から出ています。道路が崩れた場合、市に、「いつまでですか」と尋ねるのは、市には道路を修復する義務があり、いつかは修復してくれると思っているからです。同じように、神はいつかは必ず実現してくださると信じているのです。さらに、「いつまでですか」という問いは、祈れば早めてくださるという期待から出ています。道路が崩れた場合、市に何度も行って「いつまでですか」と尋ねるとすれば、そうすれば、早くしてくれると期待するからです。同じように、祈れば、神は早めてくださると、期待しているのです。
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