2024年5月15日(水)
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聖書一日一章 詩篇 16篇
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主は私への割り当て分、また杯。(5節)
ダビデは追われているようで、「神よ、私をお守りください。私はあなたに身を避けています」と祈り始めますが、彼の思いはすぐに当面の困難を離れ、神に向かいます。そして、地上で居場所のない自分にとって、神を知り、神と親しい交わりを持っていることが、何よりも幸せであることを述べます。
さて、5節では、「主は私への割り当て分、また杯」と言います。ダビデは、今追われていて、居場所がないだけではなく、殺され、露と消えてしまうかもしれません。私たちはダビデが後に王になったことを知っていますが、その時点ではダビデ自身もそうなることを知りません。もし殺されてしまえば、国の歴史には、名前さえ記されないか、反逆者として記されるだけでしょう。子孫も残らず、地所も残らず、自分が生きたことがだれにも記憶されず、何の痕跡も残らないでしょう。それはあまりにも寂しすぎます。しかし、ダビデは思います。神を知っていて、神と親しく交わることこそ、自分の分であり、地所であり、財産だと。それについて、6節では、「実にすばらしい、私へのゆずりの地です」と言います。
私の大学の同級生で、有名な人がいて、時々テレビで見たり、新聞や雑誌にエッセイが載っていて読んだりすることがありますが、彼は死んでも名が残ることでしょう。そんな彼と比べて、ふと、自分が死んだら、何が残るだろうかと思うことがありました。まず、名は残らないでしょう。名が残らなくても、子孫が続いていけばいいですが、子どもはいても結婚していませんので、期待薄です。自分が生きて、努力や苦労をした軌跡が残らないのは寂しいことだと思います。多くの方も私と同じではないでしょうか。ふとそんなことを思った私を、「主は私への割り当て分、また杯」という言葉がはっとさせました。自分は主を知っている、主によって救われている、主のものとなり、主に愛され、親しい交わりを与えられている、それこそ自分に与えられた報いだ。これ以上の報いがあるだろうか。その上、主によって愛し合う兄弟姉妹が与えられている。兄弟姉妹は肉の家族以上の永遠の家族だ。これ以上何を望むのか。そんなふうに思いました。
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