2024年5月22日(水)
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聖書一日一章 詩篇 23篇
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主は私の羊飼い。(1節)
少年の頃、羊飼いをしていたダビデは、神を羊飼いにたとえ、自分を羊にたとえ、羊飼いの愛情にあふれた世話にたとえて、神の慈しみを歌います。
さて、ダビデがこの詩を作った時は、「私の敵」という言葉からすると、すでに戦士となり、部下を率いて戦いに明け暮れていたころでしょう。そんなダビデには、羊のたとえは似合いません。というのは、羊は草食動物で、他の動物を食ったりかみついたりしませんし、草食動物の中でもとくに弱くおとなしい動物だからです。もしたとえるなら、ライオンぐらいがふさわしいでしょう。しかし、戦士であるダビデ、それも連戦連勝の強い戦士であるダビデが、自分を羊にたとえているところに、彼の神の前での自己意識が現れていると思いました。人々の前では強いし、彼自身もそのように意識していたでしょうが、神の前では、つまり、神のことを考えたり祈ったりするときには、俄然、弱い羊のように自分を意識し、羊が羊飼いに全面的に依存しているように、神に全面的に依存している幼子のようになっているのです。それこそ神と人間との真実な関係です。私たちも神の前では、弱い自分をさらけ出し、幼子のようになってよいのです。
また、ダビデは神の前で自分を弱い羊のように意識しているので、それが現実ですが、神にしてもらったことだけを挙げています。すべて、神がこうしてくださる、こんな良いことをしてくださる、そういう言葉ばかりです。「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴」ってくださいます。「主は私のたましいを生き返らせ、私を義の道に導」いてくださいます。「たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、あなたがともにおられ」、守ってくださいます。「あなたのむちとあなたの杖」で私に慰めを与えてくださいます。「私の敵をよそに、あなたは私の前に食卓を整え、頭に油を注いでくださいます。」私たちも神の前では何もできない弱い羊です。神に何もかもしてもらってばかりです。
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