2024年5月23日(木)

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聖書一日一章    詩篇 24篇

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栄光の王が入って来られる。(7節)

ダビデは、「世界とその中に住んでいるもの、それは主のもの」と言い、神を万物の所有者としてたたえます。次に、「だれが聖なる御前に立てるのか」と自問し、「手がきよく、心の澄んだ人」と自分で答えます。世界を所有する偉大な神の前では、どんな高い地位もどんな大金も役に立たない、澄んだきよい心の人だけが気に入られて立てると言います。そして、そういう人こそ「ヤコブの一族、神を求める者たち」、つまり、本来、神を信頼し、神に助けを求める民、「ヤコブの一族」、イスラエル民族だと言うのです。

さて、7節からは、急に、「門よ、永遠の戸よ、上がれ」と言います。この門や戸はいったい何を指しているのでしょうか。門は、「上がれ」と言うように、昔の西洋の城によくある跳ね上げ門で、イスラエルの王宮の門を指しています。「栄光の王」とは、10節で「それはだれか、万軍の主」と言うように、神のことです。ですから、神に王宮に入っていただくために、霊的な意味で、王宮の門を開くようにということでしょう。

しかし、4節の心の澄んだ人だけが神の前に立てるということと結びつけて考えると、門は王宮の門よりも、人の心の門と取るほうがよいのではないかと思います。そうだとすれば、心の門を開いて神を自分の心に迎え入れるようにとの勧めとなります。しかし、それは恐れ多いことです。世界の万物を所有される偉大な神を自分の心に迎え入れるのですから。それがなんと、キリストによってできるようになったのです。キリストはヨハネの福音書14章で、ご自身は天の父なる神のもとに行くが、もう一人の助け主である聖霊が与えられると予告されました。そして、その直後に言われました。「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」聖霊によって、神であるご自身が、信じる人のうちにいるようになるというのです。また、黙示録3章20節で言われます。「見よ。わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入る」と。

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