2024年5月27日(月)

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聖書一日一章    詩篇 28篇

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主は、主に油注がれた者の救いの砦。(8節)

ダビデは、悪者どもからの救出を祈り求めますが、6節以下ではその祈りがかなえられたようで、「主は私の力、私の盾。私は助けられた」と言って、神をほめたたえます。

8節では、「主は、主に油注がれた者の救いの砦」と言います。「主に油注がれた者」とは、預言者サムエルから油注ぎを受けていたダビデ自身のことでしょう。その油注ぎには、神が彼を王に任命されたという意味がありました。だからと言って、すっと王になれたわけではありませんが、いのちの危機に何度もあいながら、神に助けを叫び求めたときには、神は必ず守ってくださったのです。そういう意味で神はたしかに「油注がれた者の救いの砦」です。

「主に油注がれた者」は、預言として、随一の「油注がれた者」、「油注がれた者」に当たるギリシャ語「キリスト」と呼ばれる方を指しています。キリストは神の子ですが、完全に人間となり、人間の弱さをまとっておられました。そのため、いのちの危機に何度もあい、神に助けを叫び求め、神に助けられました。十字架で殺されたときには、叫び求めることはできませんでしたが、神はよみがえらせられました。神は、キリストにとっても「油注がれた者の救いの砦」でした。

「主に油注がれた者」は単数ですが、同じ節で「主は彼らの力」と言い、「彼ら」と呼んでいます。だれのことかと思いますが、イスラエルの民のことでしょう。ダビデは、自分と民を一体として考えていたようです。自分と民を一体として考えているという点では、キリストはもっと一体として考えておられました。いつもすべての神の民を心に置いておられました。そのあまり、責任を負い、身代わりに死ぬことまでされたのです。キリストは今も天で、すべての神の民を心に置き、神にとりなしておられます。キリストが私たちをご自身と一体として考えておられるとすれば、私たちもキリストと一体であり、私たちは小さなキリスト、「油注がれた者」です。「主は主に油注がれた者の救いの砦」という言葉は、私たちにそのまま当てはまります。

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