2024年5月29日(水)

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聖書一日一章    詩篇 30篇

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いのちは恩寵のうちにある。(5節)

ダビデは直前に死にかけるようなことがあったようで、神にいのちを救ってくださったことを感謝し、ほめたたえています。「私を癒し」とか、「私のたましいをよみから引き上げ」とか言っていることから、病気で死にかけたようです。「御怒り」とか、「御顔を隠される」とか言っているように、その病気を神の怒りのためと感じたようで、11節に「粗布を解き」とあることから、粗布をまとって、悔い改めの祈りをしたことがわかります。ですから、癒されたことは、神が赦されたことにほかならず、二重に嬉しかったのでしょう。キリストを信じている人は、キリストの血によってすべての罪を赦されていますので、神が怒られることはなく、病気は神の怒りのためではありません。それでも、病気になったときは、いろいろものを思うもので、自分の悪いことを思い出すことも多く、きっと悔い改めの機会になるでしょう。

ところで、5節では、「いのちは恩寵のうちにある」と言います。病気になると、それまで気にも留めないでしていた普通のことが、とても幸せなことであることに気づきます。たとえば、起き上がれなくなると、起き上がって普通に生活できることが、食べられなくなると、普通に食べられることが、痛みがあると、痛みがないことが、幸せなことに気づきます。キリストを信じている人なら、そんな場合、改めて神に感謝するのではないでしょうか。とくに生死の境をさまよう病気をした方は、生きるか死ぬかは自分でどうにかなることではなく、神のみ手の中にあることを感じられたに違いありません。それは、聖書の真理、人は生きているのではなく、生かされている、自分の力で生きているのではなく、神の恵みによって生かされているということです。それが、「いのちは恩寵のうちにある」の意味です。私たちは、朝起き、身支度し、出かけ、仕事や用事をし、帰って来、夕食を食べ、自分の時間を過ごし、風呂に入って寝るということを繰り返していますが、それは実は神の恵みによって生かされた一日なのです。朝起きたときに、主に、「今日このいのちを与えてくださってありがとうございます。今日一日、主が与えてくださったこのいのちをもって、主を喜び、主の栄光を現すことができるように助けてください」と祈りましょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成