2024年6月2日(日)

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聖書一日一章    詩篇 34篇

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味わい、見つめよ。(8節)

ダビデはこの詩で、人々に、自分といっしょに神をほめたたえるように呼びかけますが、「私が主を求めると、主は答え、すべての恐怖から、私を救い出してくださった」と、自分の体験を語って励まします。そして、神に身を避け、神を恐れ、神の言葉に従うように、悪を離れ、善を行い、平和を求めるように勧めます。

さて、8節では、「味わい、見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを」と言います。「神を味わい」、「神を見つめる」ようにと言うのですが、この表現は変な感じがします。「神を知る」とか「神を求める」という表現なら、私自身よく使いますが、「神を見つめる」のほうはまだしも、「神を味わう」は、至高なる神に失礼なような気がします。しかし、旧約聖書で、「知る」という言葉は、知識として知るよりも、「人はその妻エバを知った」とあるように、夫婦が互いを知り合うように知ること、それこそ、見つめ合ったり、触れ合ったり、生活経験を通して知ることを指しています。だとすると、「神を見つめる」や「神を味わう」は、ほとんど「神を知る」ことです。

それでは、ダビデはどのように神がいつくしみ深い方であることを味わったのでしょうか。詩篇27篇で願っていたように、「いのちの日の限り、主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らす」ことによってでしょう。私たちは聖書を読んで思いを巡らせること、神のことを思いながら、神を見つめることでできます。また、この詩の4節以下にあるように、窮地にあって、神に拠り頼み、救われる経験をすることによってでしょう。もうどうにもならない、どうしよう、と思ったときは、神に拠り頼む機会、神がいつくしみ深い方であることを味わう機会です。また、9節には、「主を恐れよ」とありますが、この「恐れる」は、怖がることではなく、神を大事にすること、大事にするゆえに、その言葉に本気で従うことを意味します。従おうとして従えなくて、それでも従おうとして悪戦苦闘するときに、神がいつくしみ深い方であることを味わえるような気がします。

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