2024年6月5日(水)

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聖書一日一章    詩篇 37篇

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悪を行う者に腹を立てるな。(1節)

この詩は各段落がへブル語22文字で始まる詩で、悪者は、一時的に栄えても、いずれ滅びるが、神を信頼して善を行う者は、とわに栄えると歌います。

さて、1節では、「悪を行う者に腹を立てるな」と言います。私たちが腹を立てるのは、だれかに悪いことをされたときです。奪われるとか、だまされるとか、恥をかかされるとか、乱暴されるとかで、損をし、恥をかき、痛い思いをして、腹を立てるのです。しかし、この詩が教えている真理によると、その悪いことをした人は、すぐに滅びることはありませんが、その分だけ滅びの方向に進むことになります。反対に、悪いことをされても忍耐し、ひたすら善に励めば、永遠の祝福の方向に一歩進むことになるばかりか、神がその損を埋め合わせ、その痛みを癒し、豊かに報いてくださいます。

このことはよくわかりますが、これと、キリストを信じることによって、一瞬で罪が赦され、永遠の祝福を約束されることと、どうかみ合うのでしょうか。おそらく、相対的な話と絶対的な話の違いでしょう。悪いことをすれば滅びの方向に進み、神を信頼して善に励めば、永遠の祝福の方向に進むというのは、相対的な話です。そのようにして一歩ずつ進んで行って永遠の祝福にたどりつけるかと言うと、人はみな生まれながらに罪深く、とうてい無理です。しかし、キリストはすべての人の身代わりになり、限りなく尊い血を流されたので、信じる人は永遠の祝福まで一挙に押し上げられるのです。

とはいえ、たとえキリストによって永遠の祝福まで押し上げてもらっても、相対的な進歩の差は残っています。キリストは、使徒の働き9章15節で、幻の中でアナニアに現れ、パウロについて、「彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します」と言われました。多くの悪を行ったパウロは、その分だけ苦しまなければならないのですが、キリストは同じ苦しみでも、ご自身のためと人々の救いのための苦しみを与えられたのです。私たちもそのような苦しみが与えられるかもしれませんが、それは、キリストを信じる人なら、受け入れることは難しくないと思います。

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