2024年6月8日(土)

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聖書一日一章    詩篇 40篇

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巻物の書に私のことが書いてあります。(7節)

ダビデは、泥沼から神に助けを叫び求めて救われたことがあり、そのことを神に感謝し、賛美しています。そして、改めて、神の言葉をよく学び、み心を行い、指導者として神のことを民に伝えていくとの決意を言い表します。さらに、まだ多くの困難があるので、続けて救い出してくださいと祈ります。

さて、7節では、「今、私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります」と言います。ダビデにとって巻物の書と言えば、モーセの書でしょうが、そこに自分のことが書いてあるとは、どういうことでしょうか。ダビデ以前に書かれた聖書に彼のことが預言されているかどうか考えてみましたが、ユダ部族から王が出るという預言ぐらいしか思いつきません。どうもぴったり合いません。しかし、ダビデの子孫のキリストのことなら、ぴったり合います。へブル人への手紙10章5節は、この箇所を引用して、キリストに適用しています。キリストは、完全に普通の人間としてお生まれになったのですから、ほかの赤子と同じように、何の知識も持たずにお生まれになったはずです。そんなキリストが聖書を読まれたときに、「ここにもあそこにもわたしのことが書いてある。そうだ、わたしはこのために来たのだ」と思われたとしても、不思議ではありません。

それはそうとしても、もともとはダビデの言葉ですから、ダビデはどんな意味で言ったのでしょうか。おそらく、「私の行うべきことが書いてあります」という意味でしょう。だから、直後に「あなたのみこころを行うことを喜びとします」と言っているのでしょう。行うべきことだけでなく、してはならないことや、自分が陥りやすい過ちや、実際に陥っている過ちまで書いてあると思ったでしょう。私たちも聖書を読んでいると、自分のことが書いてあるように感じることがあります。これは自分に教えられていることだ、これは自分が心の中で思っていることだ、これはまさに自分が困っていることだ、この愚かな人はほかでもない、自分だ、この言葉は自分の慰めのためだ、などと感じるのです。これが聖書の不思議なところであり、魅力であり、離せない理由です。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成