2024年6月9日(日)

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聖書一日一章    詩篇 41篇

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幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。(1節)

ダビデは4節で、「主よ。あわれんでください」と祈っていますが、そのように祈らないではおれない事情がありました。7節では、彼を憎む者たちが彼について、「床についたからには、もう二度と起き上がれまい」とささやいていたとありますから、このときダビデは病気でした。リーダーが病気で床についている状況は、敵にとっては絶好のチャンス、ダビデにとっては大変な危機でした。また、9節で、「私のパンを食べている親しい者までが、私に向かって、かかとを上げます」と言うように、味方の中にも彼を裏切って敵の側につく者がいました。それは何とも悲しい状況です。ダビデはそんな状況を、自分の罪に対する神の怒りと感じていました。

そんな状況で、ダビデは、その「あわれんでください」という祈りが、かなえられると確信しています。その根拠は、1節です。「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。わざわいの日に、主はその人を助け出される。」つまり、弱っている人に心を配り、親切にする人は、言葉を代えて言うと、弱っている人を憐れむ人は、自分が災いにあうときに、今度は神が憐れんでくださるからです。キリストもマタイの福音書5章7節で、「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです」と言われました。キリストがたとえ話の中で話された良きサマリア人、盗賊に襲われた人をかわいそうに思い、介抱し、宿で療養させてあげた人、そのような人は、きっと自分が危機のときに神から憐れみを受けることでしょう。

ところで、ダビデが「あわれんでください」と祈るとき、苦しい状況から助け出してほしかったと同時に、それを自分の罪に対する神の怒りと感じていましたから、その怒りから解放してほしかったでしょう。それこそが、彼の何よりもの願いだったでしょう。しかし、それは、弱っている人を憐れんだぐらいでは、とても不可能なことです。しかし、ダビデは預言によってある程度知っていたでしょうが、神はやがてキリストを遣わし、キリストがすべての時代のすべての人のために罪の贖いを成し遂げ、ダビデのように神に拠り頼む人をみな神の怒りから解放してくださるのです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成