2024年6月10日(月)

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聖書一日一章    詩篇 42篇

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「おまえの神はどこにいるのか」と人が絶えず私に言う間。(3節)

作者は1節で、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます」と言い、霊的渇きを感じていることを告白します。それは、4節で、「祭りを祝う群衆とともに、神の家へゆっくりと歩んで行ったこと」を思い起こしているように、エルサレムの神殿での礼拝や祭りに、何らかの事情で参加できなくなっていたからです。新約時代のクリスチャンのように、聖霊によって、いつでもどこででも礼拝できるということがなかったので、神と交わるすべがなくなってしまい、霊的渇きを感じたのです。それでも言います。「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。」

さて、3節では、「昼も夜も私の涙が私の食べ物でした」と、自分の悲しみとつらさを大げさに表現します。一番悲しくつらいのは、「おまえの神はどこにいるのか」と人から言われることだったようです。作者が国内にいるのか外国にいるのかよくわかりませんが、少なくとも創造主なる神を信じない人々に囲まれていて、信仰を嘲られていたようです。信仰を嘲られるのは気持ちのよいものではありませんが、それほど悲しくつらいのは、信仰が揺さぶられるからではないかと思いました。創造主なる全能の神に絶対的確信を持っていれば、だれが何を言おうと、「神がおられるのを知らないとは、なんてバカな奴らだ。そんなことを言っていると、痛い目にあうぞ」と思うでしょう。そう思わないのは、一瞬でも、「神はおられるのだろうか」、「祈りはかなえられるのだろうか」と疑うからでしょう。詩篇の作者でもそんな疑いを持つことがあるのかと思われるかもしれませんが、そんなものだと思います。神にまったく疑いも不安も感じたことがないのは、キリストだけでしょう。私たちは、難しいことでも、神とその力を信じて祈りますが、実現するまで、不安はなくなりません。もちろん、その通りになるように祈るのではなく、「私の願いではなく、み心がなりますように」と祈るのですが、神が最善をなしてくださると信じきれないのです。私たちはそんな弱さを持ちながらも、信じていこう、祈り続けようと、決心するのではないでしょうか。クリスチャンの人生はそういう決心の連続のように思います。

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