2024年6月12日(水)

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聖書一日一章    詩篇 44篇

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神よ。あなたこそ私の王です。(4節)

作者は軍の司令官で、最近大きな敗北を期し、その窮地にあって、神が昔イスラエルを救われたことを思い出し、同じように救ってくださいと祈ります。

さて、作者は4節で、「神よ。あなたこそ私の王です」と言うように、神を王と思って従っています。また、6節で、「私の弓に、私は頼りません。私の剣も、私を救いません」と言うように、神だけに信頼しています。しかし、9節から22節では、ガラッと変わり、自分たちを惨めな状態にしておく神を責めているようです。「あなたは私たちを退け、卑しめられました。」「あなたは私たちを餌食となる羊のようにし、国々の間に散らされました。」「あなたは私たちを国々の間で物笑いの種とされます。」さらに、12節では、「(あなたは)ご自分の民を安く売り渡された」、22節では、「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています」とまで言います。聖書の中で、こんなに神を責めている人はいません。ほかの多くの場合は、敗戦などにあって、自分たちの不信仰や罪をその原因として告白し、赦しを求め、助けを願っています。それが常道です。この作者は自分たちについては、17節で、「私たちはあなたを忘れず、あなたの契約を無にしませんでした」、「私たちの心はたじろがず、私たちの歩みはあなたの道からそれませんでした」と自信をもって言います。自分たちは正しい、だから、助けない神が悪いと言うのです。この作者は傲慢なのでしょうか。

そうとは思いません。この作者も、落ち度がないのかと問われれば、落ち度の多いことを認めるでしょう。しかし、そんな当たり前のことをわざわざ言うよりも、むしろ神に赦され受け入れられている親しさから、子どものように遠慮なく言っているのでしょう。この作者においては、「神よ。あなたは私の王です」という尊敬・従順と、「助けてくれないから、こんなです」という親しさが両立していると思います。私たちにもそういうところがあるのではないでしょうか。私たちはキリストに対して、「あなたは私の王です。従っていきます」と表明しますが、同時に、何でも赦し、何でも受け入れてくれる友のように感じているのではないでしょうか。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成