2024年6月19日(水)

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聖書一日一章    詩篇 51篇

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私の背きをぬぐい去ってください。(1節)

この詩の前書きには、「ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」とあります。ダビデがウリヤの妻バテ・シェバと姦淫を犯し、それを隠ぺいするために、夫ウリヤを激戦地に送り死なせるという大きな罪を犯した後、預言者ナタンにその罪を諫められたときのことです。この詩には、ダビデの罪の自覚、深い悔い、神のあわれみと赦しの求め、自分をきよめ、新しくしてくださるようにとの願いが表されています。

ところで、ダビデは1節で、「神よ。私をあわれんでください」と言い、重い罪を犯した自分は、神に顔向けできないので、憐れんでもらうしかないと自覚しているようです。しかし、直後に「私の背きをぬぐい去ってください」と言います。これは大胆不敵な発言です。というのは、重い罪を犯して謝るときには、赦してもらえるかどうかわからないので、相手の怒りを伺いながら、「とんでもないことをしました。とても赦してもらえることではありません」から始めなければなりません。そして、どんなに悔いているか、どんなに自分が愚かか、どんなに悲しいかを言って、少しずつ怒りをなだめ、憐憫を買っていくものです。それなのに、いきなり「私の背きをぬぐい去ってください」などと言うと、あんなひどいことをしておきながら、赦せと言うのかと、かえって怒りをあおってしまいます。ですから、ダビデがこんなふうに言う限り、大胆にも、神が赦してくださると確信していると思いました。そう思ってほかの節を見ると、確かにそうです。なんと自分の回復のためにいろいろ頼んでいます。7節では、「私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなります」、11節では、「あなたの聖なる御霊を私から取り去らないでください」、12節では、「救いの喜びを私に戻してください」と言います。なぜ神が赦してくださると確信できるのでしょうか。1節で「あなたの恵みにしたがって」と言うように、神の恵みをよく知っていたからでしょう。神の恵みはキリストによって表されましたが、ダビデはその前からその恵みを知っていたのでしょう。しかし、私たちはキリストによってその恵みをはっきりと知っています。どんな罪を犯しても、神はキリストによって必ず赦してくださると確信しています。

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