2024年6月20日(木)

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聖書一日一章    詩篇 52篇

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私は、神の家に生い茂るオリーブの木。(8節)

ダビデは、ここでは、力や富にまかせて悪を堂々としている者、悪賢く言葉巧みで人を欺いて勝ち誇っている者に宣告します。「神は、おまえを生ける者の地から、根絶やしにされる」と。また、その結末を見て、人々は、「神を力とせず、自分の大きな富に頼り、破滅のわざを勝ち誇る者」の愚かさをつくづく思うと言います。ダビデはそういうことを踏まえて、8節で、「私は、神の家に生い茂るオリーブの木。私は世々限りなく、神の恵みに拠り頼む」と決意します。ここで自分のことを「神の家に生い茂るオリーブの木」と言っています。「神の家」とは、ダビデの時代にはまだ神殿が建っていなかったので、契約の箱を置いた宮のことでしょう。そこにはオリーブの木はありませんが、そこにあると想像して自分にたとえているのです。それは、ダビデが自分の土台を礼拝に置いていることを表しています。それは、神との交わりを土台にしていると言い換えることができるでしょう。神との交わりを土台としている人は、礼拝することを望み、礼拝の場所を好むからです。

同時に、このたとえは、ダビデの活力の源が神との交わりにあることを表しています。オリーブの木は生命力にあふれた植物で、栄養豊かな油を産み出すオリーブの実をつけます。そんな木も、水がなければ枯れてしまいます。大量の水は要りませんが、少しの雨か地下水脈によって、絶えず水が供給される必要があります。ダビデにとっての水の供給源、いのちの泉は、神との交わりだったのです。

パウロはエペソ人への手紙2章11節以下で言います。「あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。そのころはキリストから遠く離れ、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリストの血によって近い者となりました。」私たちはもともと神から遠く離れ、いのちの泉がなく、いわば砂漠のような地で枯れかかっていたオリーブの木でした。キリストはそんな私たちを神の家の庭に植え替えてくださり、神の家族にし、いのちの泉であるご自身との交わりを与えてくださったのです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成