2024年6月24日(月)

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聖書一日一章    詩篇 56篇

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高ぶって、私に戦いを挑む者が多いのです。(2節)

ダビデは、敵に待ち伏せされたり、跡をつけられたり、暴力を振るわれたりしていたようです。そんな中で、1節で、「神よ。私をあわれんでください」と、神の憐れみを求めます。また、8節では、「あなたは私のさすらいを記しておられます。どうか私の涙をあなたの皮袋に蓄えてください」と、神の憐れみの情に訴えます。4節では、自分の信仰をはっきり表明します。「神に信頼し、私は何も恐れません。肉なる者が私に何をなし得るでしょう。」神に信頼すると同時に、それをはっきり表明することも大切だと思いました。

さて、2節では、「高ぶって、私に戦いを挑む者が多いのです」と言います。戦いを挑んでくる者のことを高ぶっていると言うのです。彼らだけでなく、一般に、戦おうとする者は、高ぶっていると思いました。というのは、負けると予想して戦う者はいませんから、戦おうとする者は、自分は強い、勝てると思っています。これは思い上がりです。兵力は客観的に比較することができますが、勝負は水物と言われるように、実際の戦いでは、兵力がまさっているほうが勝つとは限りません。それなのに、絶対に勝てると思うのは、高ぶっているからです。それは、戦争に限りません。言い争う場合も同じです。だれかと言い争う場合、自分は正しい、相手は間違っていると思っているものです。相手も同じように、自分は正しいと思っているので、言い争いになるのです。そういうときは、自分の言い分をいくら考え直しても、どこもおかしくないと思えるものです。しかし、人間には、絶対に正しいということはありません。絶対に正しいのは神だけです。自分は正しいと思うとき、高ぶっていないか自己吟味し、へりくだりましょう。

とはいえ、私たちも戦わなければならないときがあります。キリストが戦っておられる戦いをいっしょに戦うときです。キリストはその戦いにおいて、武力や暴力を使われません。また、戦う相手は人ではなく、悪魔です。また、戦う目的は、一部の人たちのためでも、クリスチャンのためでも、教会のためでもなく、多くの人々の救いと神の栄光のためです。そのようなキリストの戦いを戦いましょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成