2024年7月3日(水)

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聖書一日一章    詩篇 65篇

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まことに喜び叫び歌っています。(13節)

この詩は、1節から4節と5節以下で、雰囲気ががらっと変わります。1節から4節は、エルサレムの聖所の前の広場で、罪を告白し祈っている光景が思い浮かびます。5節以下では、大海、最果ての地、川、果てしない荒野などの光景が思い浮かびます。

さて、12節では、「荒野の牧場に滴り、もろもろの丘も喜びをまとっています」と言います。この節だけでは何のことかわかりませんが、滴るというのは10節の「夕立」のことで、夕立が荒野の枯れかけた草に滴り、草が息を吹き返し、褐色の地が緑になったことを、地が「喜びをまとってい」ると表現しているのです。また、13節では、「牧草地は羊の群れをまとい、広やかな平原は穀物を覆いとしています。まことに喜び叫び歌っています」と言います。牧草地に羊の群れが集合すると、ちょうど地が羊の衣をまとっているように見えますし、平原に穀物が一面にみのると、ちょうど地に穀物のじゅうたんが敷かれているように見えます。地のそのような豊かな状態を「喜び叫び、歌っている」と表現しているのです。

しかし、それは単に文学的な表現ではありません。地がそのような豊かな状態になるのは、神が雨を降らせ、適度な日差しと温度を与え、自然環境を整えられたからで、神の恵みの結果です。逆に、地は神の恵みによく答えて、それを生かしていると言えます。言い換えると、神の恵みに対して、喋れない地が、緑と実りと生き物をまとうことで、神を賛美していると言えます。

そんな地に比べ、人間はどうでしょうか。神の恵みを受けても、無感覚で、感謝もせず、賛美もしません。パウロはローマ人への手紙1章21節で、「彼らは神を(被造物を通して)知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです」と言います。しかし、私たちは、キリストによって、神の恵みに目を開かれました。私たちは感謝し、賛美しましょう。神の愛と恵みを「喜び叫び、歌」いましょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成