2024年7月6日(土)

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聖書一日一章    詩篇 68篇

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死を免れるのは、私の主、神による。(20節)

この詩は、状況がよくわからないのですが、イスラエルのバシャン地方、ガリラヤ湖の北東の地域で、外国との戦争があって、神が勝利を与えてくださるように祈っているようです。19節では、「ほむべきかな、主。日々、私たちの重荷を担われる方。この神こそ、私たちの救い」と言います。民にとって外国との戦争は大きな重荷です。戦場で戦っている兵士も、送り出して支える民も、力の限りの労苦が求められます。しかも勝てる保証はなく、負ければ多額の貢と労役が待っています。しかし、自分たちの神はそんな重荷を担ってくださる神だと言うのです。神は偉い存在ですから、人々が荷物を持たなければならない立場ですが、私たちの神は反対に、私たちの重荷を担ってくださるのです。たしかに、神はみ子キリストによって、私たちの最大の重荷である罪を担ってくださいました。

さて、20節では、「神は私たちの救いの神。死を免れるのは、私の主、神による」と言います。戦争ではだれもが生死の境をさまようことになります。戦争になれば、戦っている兵士だけでなく、一般の人々も、いつ襲われて虐殺されるかわかりません。そんな戦争において、死を免れるとすれば、自分たちのいのちを身をもって守り救ってくださる神による以外にないというのです。日本の私たちは、戦争に巻き込まれることはすぐには考えられませんが、死の危険は戦争だけではありません。私たちは、考えてみれば、死の危険に囲まれています。ガンになる危険性は当時のイスラエルよりもずっと高いでしょう。地震や津波の危険性はイスラエルの比ではありません。交通事故や原発事故など、古代にはなかった危険もたくさんあります。火事で死ぬことは、家が石造りだったイスラエルにはなかったでしょう。私たちは案外死の危険が大きいのです。ですから、私たちは、これまで死なずに生きてこれたことを当たり前と思ってはならないと思います。死を免れたのは、「私の主、神による」としっかり心に留めましょう。そして、昨日一日生かしてくださったことを感謝しましょう。今日も一日生きれるなら、それは主が一日生かしてくださることで、きっとその意味、その目的や使命があると思いますので、精一杯生きましょう。

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