2024年7月22日(月)

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聖書一日一章    詩篇 84篇

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燕もひなを入れる巣をあなたの祭壇のところに得ます。(3節)

神殿で礼拝する喜びを歌います。「万軍の主よ。あなたの住まいは、なんと慕わしいことでしょう。私のたましいは、主の大庭を慕って、絶え入るばかりです。」神殿でずっと過ごす祭司たちについては、「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは」と言います。また、心の中で神殿を慕い、そこで神を礼拝することを願う人は、「なんと幸いなことでしょう。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉の湧く所とします」と言います。また、「あなたの大庭にいる一日は、千日にまさります」と言います。

さて、3節では、「燕も、ひなを入れる巣を、あなたの祭壇のところに得ます」と言います。作者は、燕が神殿に巣を作ったのを見て、自分をその燕にたとえ、燕のように小さな自分も、神殿に住みかを見つけたと喜んでいるのです。とくに、燕が「祭壇のところに」巣を作ったことが心に留まりました。祭壇はいけにえの動物を焼く所ですが、焼くための格子網があるので、そこに巣を作ったのでしょう。残念ながら、そのままでは焼かれてしまうし、儀式に邪魔なので、実際にはすぐに取り除かれたでしょう。しかし、作者は、預言的な意味を見出しています。つまり、いけにえの動物は私たちの罪を身代わりに負って死なれたキリストを指し、祭壇はキリストが死なれた十字架を指すと言えます。パウロはガラテヤ人への手紙2章19節で、「私はキリストとともに十字架につけられました」と言い、他のいくつかの箇所で、キリストとともに死に、キリストとともに生きたと言います。これは十字架に住みかを持っているようなものです。パウロはいくつかの箇所でクリスチャンたちに、キリストとともに十字架で死に、キリストとともに生きるように勧めています。つまり、十字架に自分の住みかを持つようにという勧めです。パウロも私たちも、十字架という危険な場所に住みかを持っているのです。

そんな場所に住みかを持つ人は、ぼーっとしていられません。パウロはコリント人への手紙15章31節で、「私は日々死んでいる」と言い、日々死を覚悟していることを表明します。私たちも十字架に住みかを持っているなら、「生きることはキリスト、死ぬことは益です」と言って今日を生きましょう。

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