2024年7月27日(土)

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聖書一日一章    詩篇 89篇

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幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。(15節)

この詩ほど、明るく高らかに神をほめたたえ、神のことを知らせようという意気込みの詩はほかにありません。「私は、主の恵みを、とこしえに歌います。」(1節)「主よ。天はあなたの奇しいみわざをほめたたえます。いったい、雲の上ではだれが主と並び得るでしょう。」(5~6節)「だれがあなたのように力があるでしょう。天はあなたのもの、地もあなたのもの。世界とそこに満ちているものは。」(8~11節)「幸いなことよ。彼らはあなたの御顔の光の中を歩みます。あなたが、彼らの輝きです。」(15~17節)

さらに、神が王として選んだダビデとその子孫にされた確かな約束を記します。「わたしはあなたの裔をとこしえまでも堅く立て、あなたの王座を代々限りなく打ち立てる。」(3~4節)「わたしは彼の前で彼の敵を打ち砕き、わたしの恵みは彼とともにあり、彼はわたしを呼ぶ。『あなたはわが父、わが神、わが救いの岩』と。」(23~26節)「彼の子孫は、とこしえまでも続く。その王座は、太陽のようにわたしの前にある。」(36節)

しかし、38節以下を読んで驚きました。作者が前半で語ったこととまったく反対の現実を語っているからです。これはバビロンによって王国が滅ぼされ、エルサレムが廃墟とされ、多くの国民が殺され、あるいは捕囚となった状況と思われます。ダビデの血を引く王族もほとんど殺され、生き残っていたエホヤキンもバビロンの獄中という悲惨な状況です。39節では神に向かって、「あなたは、契約を廃棄し、彼の王冠を地に捨てて汚」されましたと言います。同じ作者の言葉とは思えません。しかし、同じ一人の人でも、神の言葉にまったく反対の現実を見て、神の言葉に疑問を感じる時と、現実にかかわらず、神の言葉をそのまま信じる時があったのでしょう。それから、2千5百年、どちらが正しかったかは明らかです。ダビデの子孫としてキリストが来られ、神の国ができ、世界中に広がり、キリストが天で王として治めておられ、神の言葉を信じて間違いなかったのです。このことは、現実がどんなに神の言葉と違っても、たとえまったく反対でも、神の言葉は信じることができるし、信じて、神を明るくほめたたえるべきことを教えます。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成