2024年8月1日(木)
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聖書一日一章 詩篇 94篇
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気づけ。民のうちのまぬけな者どもよ。(8節)
「復讐の神、主よ」で始まるので、ぎょっとしますが、悪しき者が勝ち誇り、やもめやみなしごや寄留者を殺しているのを見て、さばき主なる神に正しくさばいてくださるように祈ったものです。神を信じる自分たちについては、神がどんな災いの中でも平安を与えてくださることを信じて、「なんと幸いなことでしょう」と感動を込めて言います。
さて、8節では悪しき者たちに、「気づけ。民のうちのまぬけな者どもよ」と言い、さばき主なる神に気づくように促します。ただ、いくら悪しき者だと言っても、「まぬけ」という言い方はどうでしょうか。たしかに、知能や能力の低い人を蔑んで言うのは悪いことです。しかし、ここではそんな意味ではありません。むしろ、その人々は、悪いことを思いつくほど頭が良く、争いに勝って勝ち誇るほど強く、ほかの人にできないことができるほど有能です。そんな人々がなぜ「まぬけ」なのか、神の存在と、神がすべてを見ておられさばかれることに気づかないからです。気づかずに、この世をわが物と思って横柄にふるまっているのです。
パウロもそうでした。テモテへの手紙第一1章13節で、「私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした」と言います。パウロは同世代のだれよりも教養があり、頭が良く、指導力があり、ユダヤの宗教的伝統には熱心でしたが、神を知らず、自分がさばかれなければならないことにも気づいていませんでした。その意味で、パウロは「まぬけ」でした。キリストを信じたパウロは、ある箇所で、自分は以前は愚かだったと告白し、他の箇所で、自分は「罪人のかしら」だと告白しています。そのように告白しているパウロは、もはや「まぬけ」ではありません。私たちも、以前は、神を知らず、神のさばきも知らず、高ぶって自分が一番賢いように思っていて、ほんとうに「まぬけ」でした。神の憐れみにより、キリストを知り、神を知り、自分が愚かな罪人であることを知りました。自分の愚かさを告白しつつ、キリストの救いを喜び、謙遜に歩んでいるなら、けっして「まぬけ」ではないと思います。
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