2024年8月3日(土)

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聖書一日一章    詩篇 96篇

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天は喜び、地は小躍りする。(11節)

「新しい歌を主に歌え」で始まり、全地のすべての民に、創造主なる神こそほめたたえられるにふさわしい方だから、ほめたたえるように呼びかけます。

さて、1節では、「全地よ」と言いますが、「全地」というのはそんな一言で言えるようなものではありません。私たちは、世界地図を持っていますし、地球儀を持っていますし、実際に飛行機で世界旅行ができるので、「全地」を知っていますが、当時の人々はそうではありません。徒歩やらくだで行けるぐらいの範囲しか知らなかったし、遠い国についてはうわさで聞くだけでしたし、東の果て、西の果て、北の果て、南の果てに何があるのか、だれも知りませんでした。世界は知識の地平線の向こうに延々と広がっていました。そんな広い世界を「全地」と一言で言えるのは、創造主なる偉大な神を知っていたからで、その神の前に「全地」も小さかったからでしょう。

11節では、「天は喜び、地は小躍りし、海とそこに満ちているものは、鳴りとどろけ」と言います。こういうのは擬人化と言いますが、「草木が喜び」とか「岩が小躍りする」ぐらいならまだしも、天や地は大きすぎるので、普通はあまり擬人化しません。やはり、創造主なる神の信仰によって、神の前に、地も、天さえも小さく思い、このような表現になったのでしょう。

考えてみると、私たちはなんと大きな神を信じていることでしょうか。このような神は、人間の思いつくことではありません。人間が見聞きしたことや体験したことから思いつくのは、せいぜい、雲の上に神がいるとか、太陽が神で、明るく地上を照らしているぐらいでしょう。地も、天さえもみ手のわざであるような偉大な神の信仰は、ご自身の啓示、つまり預言者たちを通しての啓示によってしか生まれないでしょう。すると、預言者たちの言葉は、それは現在では聖書となっているので、聖書は、私たちの見方を変え、山も海も地球も、天さえも、神のみ前で小さなものに思わせるのです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成