2024年8月4日(日)

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聖書一日一章    詩篇 97篇

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光は、正しい者のために蒔かれている。(11節)

作者は、「主は王である」と言って、偉大な力で諸国の民をさばかれることを歌います。一方、神を愛する人々は、そのような神のさばきを聞き、喜び、ほめたたえると言います。そして、神を愛する人々に向かって、神はご自身を愛する人々を守り、救われるので、喜び感謝するように励まします。

さて、11節では、「光は、正しい者のために蒔かれている」と言います。「光」とは、心を明るくするもののことで、希望の光と言っても、幸せへの糸口と言ってもよいでしょう。その「光」が蒔かれている、つまり、神が蒔いておられるというのです。蒔かれているので、「幸せの種」と言っておきましょう。神はある人に幸せを、ある人に不幸を与えられるのではなく、だれでも見つけられるように、どこにでも蒔いておられるのです。ただ、「正しい者のために」とあるように、正しい人、つまりご自身を愛し、み心に沿って生きる人に与えたいので、そういう人だけが見つけられるようにしておられます。自分の得しか考えない人、みえを第一にする人、この世の栄えを追う人、神以外の何かを崇拝する人、人を尊重しない人は、気づかないのです。

人はみなそういうところがあるので、神がせっかく蒔いておられる幸せの種を見つけることができません。多くの人がむなしいものしか得られない原因です。キリストは、そんな私たちを救い、造り変えてくださいます。まず、私たちを生まれ変わらせ、神を愛する心を与えてくださいます。そして、神に受け入れられるように、ご自身がすでに十字架で身代わりに死んでくださっています。しかし、キリストは私たちを救われるだけではなく、正しい人、つまり神のみ心に沿って生きる人に造り変えてくださいます。これは、救いの恵みに劣らないすばらしい恵みです。神が蒔いておられる幸せの種を見つけるためには、このお取り扱いを受け続けなくてはなりません。変えられれば変えられるほど、見つけることができるようになります。それと、幸せの種は、見つけるだけでなく、水をやって育てなければなりません。神は私たちに育てる努力をさせられます。その努力をあきらめずに続け、実を実らせるためにも、造り変えられることが必要です。

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