2024年8月5日(月)
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聖書一日一章 詩篇 98篇
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主に勝利をもたらしたのだ。(1節)
この詩は96篇と似ています。「新しい歌を主に歌え」で始まり、全地のすべての民に神をほめたたえるように呼びかけ、「主は、地をさばくために来られる」という言葉で終っている点で同じです。
1節では、「主の右の御手、聖なる御腕が主に勝利をもたらしたのだ」と言います。旧約聖書に「勝利」という言葉はよく使われますが、この「主に勝利をもたらした」という表現は特別です。ほかの箇所では、だれかが単に「勝利を収めた」か、「主が勝利をもたらされた」かで、勝利するのは人間です。「主に勝利をもたらした」つまり神が勝利をされたという表現は、ここだけです。というのは、神はこの世界のすべてを計画し動かしておられる方で、いわばこの世界のドラマのプロデューサーです。神にとって、ご自分が勝利するのは、そのように計画すればよいことで、簡単ですが、意味のないことです。また、神は、この世界のさばき主ですが、それはこの世界のドラマの審判だということで、審判が勝利するのはおかしいです。勝利は、登場人物にかかわることで、モーセやダビデにかかわることです。
しかし、一つだけ例外があります。キリストです。キリストは、この世界を動かす神であられ、この世界のドラマのプロデューサーなのに、人間となって、ドラマの中に入ってこられ、人間を救うために戦われたのです。神であれば戦う必要がないのに、人間となって、悪魔と戦い、悪魔が人間の心に蒔いた罪と戦い、罪に染まった世界と戦い、死の力と戦われました。そして、ヨハネの福音書16章33節で、「わたしはすでに世に勝ちました」と言われました。この詩の作者は、キリストが来られるよりも何百年も前の人で、キリストを知りませんが、「主は御救いを知らしめ、‥‥地の果てのすべての者が私たちの神の救いを見ている」と言っているので、キリストのことを啓示されていたのでしょう。私たちは勝利されたキリストを知っています。知っているだけでなく、聖霊によってともにいていただいています。勝利されたキリストがともにおられると、弱い者でも強くなり、勝利することができるのです。
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