2024年8月7日(水)

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聖書一日一章    詩篇 100篇

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主に向かって喜びの声をあげよ。(1節)

この詩は、2節に「喜び歌いつつ御前に来たれ」とか、4節に「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ」とあるように、人々を神殿の大庭での礼拝に招くものです。キリスト教会でも礼拝への招きによく使われます。

さて、1節と2節では、「喜びの声をあげよ」、「喜びをもって主に仕えよ」、「喜び歌いつつ御前に来たれ」と、3度も礼拝を促し、同時に喜ぶことを促しています。私は今まで気にもとめずに読んでいましたが、これは普通のことではないと気づきました。限りなく尊い神を礼拝するのには、「恐れて」、「おごそかに」、「厳粛に」、「ひれ伏して」などがふさわしく、喜ぶことは不自然です。喜ぶのは、おめでたいときや遊ぶときにすることです。なぜ喜ぶことを促すのでしょうか。私はその背後に「救われた」という経験があるからだと思います。「救われた」と言っても、旧約時代の人々はまだキリストを知りませんから、私たちが言う救いではありません。人々が神をないがしろにしたために祝福を失い、外国に侵略され、悲惨な目にあった中で、悔いて神に立ち返り、赦され、外国の支配から解放されるというような救いです。外国に支配されている間、礼拝ができなかったとすれば、礼拝ができることは、神の救いの象徴で、最高に嬉しいことであり、喜ぶのは当然です。

それは私たちの礼拝も同じです。私たちはもともと神を知らず、何のために生きているのかも知らず、欲望に振り回されるむなしい人生を歩んでいました。それなのに、キリストによって神を知り、罪から解放され、神に仕え、天の報いを楽しみにして歩むようになったのです。つまり救われたのです。ですから、キリストはマタイの福音書5章12節で、「喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのです」と言われます。パウロはピリピ人への手紙4章4節で、「いつも主にあって喜びなさい」と言います。礼拝は、救われてはじめてできることで、その意味で救いの象徴で、最高に嬉しいことです。喜ぶのは当然です。私たちは、「静まって礼拝しましょう」とよく言いますが、むしろ「喜びをもって礼拝しましょう」と言ったほうがよいのではないでしょうか。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成