2024年8月11日(日)

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聖書一日一章    詩篇 104篇

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私はいのちの限り、主に歌います。(33節)

作者は、「わがたましいよ。主をほめたたえよ」と言って、神の創造と摂理のわざとして、天、風、地、水、山、泉や川、草、木、鳥、太陽と月、獣、海、海の生き物、火山などの営みを描き、神をほめたたえます。

さて、33節では、「私はいのちの限り、主に歌い、生きるかぎり、私の神をほめ歌います」と言います。この「いのちの限り」には、時間的な意味で「いのちある限り」あるいは「生きている限り」という意味があると思います。いのちある限り、神を崇め、神をほめたたえるというのです。私たちもキリストを信じたとき、一生信じ続けることを誓いました。それはとても自然なことです。キリストを通して神が、一生愛すると、いや、それどころか永遠に愛すると、それも無条件で愛すると約束してくださったからです。

さらに、この「いのちの限り」には、「全身全霊で」という意味があると思います。全身の力を振り絞って声を出し、神をほめたたえる、同時に、それよりも大事なことですが、心からほめたたえる、しかも、ばらばらな状態の心の一部でほめたたえるのではなく、心の全部を神に向けて、神をほめたたえるというのです。それが、35節で、「わがたましいよ、主をほめたたえよ」と言っている意味でしょう。これは、もしそうするように強いられたら、とても大変なことですが、神の愛からすると、自然なことです。神は、苦々しく思いながら、一応愛されるのではなく、愛一色の心で、しかも心を注いで愛してくださるからです。

さらに、この「いのちの限り」には、「いのちさえささげる気持ちで」という意味があると思います。自分の所有すべてを神にささげ、いのちさえささげる気持ちで、神をほめたたえるというのです。いのちをささげるとは、尋常ではないことですが、そのことが自然である理由は言うまでもないでしょう。私たちが神の全き愛を受けられるように、そのために罪が赦されるように、キリストはすべてをささげ、いのちさえささげてくださったからです。神とキリストをいのちの限りほめたたえましょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成