2024年8月17日(土)

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聖書一日一章    詩篇 110篇

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あなたはとこしえに祭司である。(4節)

ダビデのこの短い詩は、詩篇の中でも特別です。短いのに新約聖書で一番多く引用されています。それだけ預言的な性格が強いのです。ほかの詩はもともと当時の事情を背景にした当時の信仰の歌で、聖霊の働きによって、たまたまその中のある言葉が、作者の意図を超えて預言として用いられたものなのに、この詩だけは当時の歌としてはほとんど意味をなさないのです。

1節で、「主は、私の主に言われた」とありますが、「主」つまり神が語りかけられる相手の「私の主」とは、だれのことでしょうか。ダビデの詩ですから、彼にとって「私の主」は神しかなく、そうすると、神が神に語りかけられるというおかしなことになります。一つの推論として、ダビデの側近が作った詩だとすると、「私の主」はダビデで、神がダビデに語りかけられるということで辻褄が合います。しかし、神がダビデにご自身の右の座に着くように言われるのは変ですし、「とこしえに祭司である」と宣言されるのも、祭司になれる家系でないので、辻褄が合いません。「私の主」がだれかについて、一つだけ辻褄の合う答えがあります。キリストと考えることです。そうすると、神の右の座に着くことも、すべての敵を足の下に置くことも、永遠の祭司であることも、ぴったり当てはまります。そうだとすると、キリストのことをまったく知らない時代にあって、この詩はぶっ飛んでいます。

さて、3節までの前半は、静かで平和な雰囲気です。しかし、後半の5節と6節では、「主は、御怒りの日に、王たちを打ち砕かれる。国々をさばき、屍で満たされる」とあり、激しいさばきの場面となります。私はその間に4節の「あなたは、とこしえに祭司である」という宣言があることに、大きな意味があると思いました。私たちは、キリストを救い主と信じ、罪を赦され、滅びから救われたと信じています。しかし、死を前にして、あるいは生きている間にこの世界の終わりが来た場合、そのときに、私たちは悠然としておれるでしょうか。やはり恐怖を感じるのではないでしょうか。こんな罪多き者がさばきを免れるのだろうかという恐れです。そのときに、神の「キリストはとこしえに祭司である」という宣言は心強いものです。

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