2024年8月19日(月)
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聖書一日一章 詩篇 112篇
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彼の義は永遠に堅く立つ。(9節)
この詩は、正しい人や情け深い人は、末永く祝福されて幸いだと歌っています。
さて、9節では、「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に堅く立つ」と言います。貧しい人々、病気や障がいで働けない人々や、やもめや外国からの難民など収入を得られない人々に、惜しみなく分け与える人は、その「義が永遠に堅く立つ」と言うのです。「義が永遠に堅く立つ」とはどういうことでしょうか。「その子孫は地の上で勇者となる」とか、「繁栄と富はその家にある」とか、「その人はとこしえまで揺るがされない」とか、幸いなことが並べられています。しかし、それらは結果であって、その本質は、彼が正しいことを行ったことは、永遠にすたれないということでしょう。永遠にすたれないのは、神が認め、覚えておられるからです。神が覚えておられるので、祝福がその子孫にまで続いていくのです。
そういう行いが神に認められることは、間違いありませんが、キリストが来られ、贖いを成し遂げられた限り、私たちは、行いによって義と認められるのではなく、キリストへの信仰によって義と認められるのではないでしょうか。どう理解すればよいのでしょうか。パウロはガラテヤ人への手紙5章1節で、キリストの救いを、奴隷からの解放にたとえています。このたとえで理解すればよいと思いました。奴隷は、良い仕事をすれば主人にほめられますが、どんなに良い仕事をしても、奴隷から解放されるわけではありません。解放されるための贖い金は、高価で、それぐらいでは、到底足りないからです。しかし、良い仕事をしなくても、たとえさぼってばかりでも、金持ちの親戚がいて、贖い金を出してくれるなら、奴隷から解放されます。解放されたなら、感謝して、良い仕事をすべきですが、しないからと言って、再び奴隷に戻されることはありません。同じように、良い行いは永遠の価値を持っていますが、それで永遠のいのちを得られるわけではありません。いのちの贖い代は高価で、到底及ばないからです。永遠のいのちは、キリストの無限に尊い血によってのみ得られるのです。
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