2024年8月31日(土)
_____________________________________________________________________________
聖書一日一章 詩篇 119篇81~96節
_____________________________________________________________________________
たとえ煙の中の皮袋のようになっても、私は忘れません。(83節)
「煙の中の皮袋のようになっても」という言葉が心に留まりました。皮袋は水やぶどう酒を入れないときは、天井から吊るすのですが、古くなると、かまどの煙で黒ずみ、しわしわになります。その様子が年老いて皮膚が黒ずみ、しわしわになった老人に似ているので、たとえに使われています。衰え果てることをよく表しています。老人でなくても、病気や苦難によって衰え果てることがあります。そんなときは、体は重く、いろいろな所が痛く、力は出ず、気力が湧かず、憂鬱で、何も良いことがないように思えるでしょう。作者は、そんなふうになっても、神に「私はあなたのおきてを忘れません」、つまり、神の言葉を大事にし、従っていきますと言うのです。
健康で、体力があり、気力も充実している時は、何をしてもうまく行くでしょう。神への感謝もあふれるでしょう。そんなときに、神を信頼し、従っていくのは容易です。しかし、それとは正反対の時もあります。いわば落ち目の時あるいは落ちぶれたと感じる時です。そんな時に神を信頼して従っていくことができるでしょうか。そのために助けになることを考えてみました。
一つは、古き良き時代を懐かしむようなことはやめ、今日一日を最後の日と思って生きることです。一つは、望みを天にだけ向け、この世を蔑むことです。永遠の人生に比べれば、この世の人生は一瞬です。一つは、世的な価値観を捨て、キリスト的な価値観を持つことです。つまり、成功を価値あることと考えず、神に愛されていること、神に役に立つことを、何より価値あることと考えることです。一つは、体が動かなくなれば、心の活動をより活発にすることです。パウロはコリント人への手紙第二4章16節で、「私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」と言います。体が衰えても、内面は衰えることがないばかりか、より生き生きとなることは可能です。そのためには、キリストを信じて新しく生まれ、聖霊に住んでいただかなくてはなりませんし、元気なうちに、自分の霊的な世界を、み言葉や祈りや賛美によって豊かにしておくことが大切だと思います。一つは、現状を自分の十字架と受けとめ、その十字架を負う覚悟を決めることです。
テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944 鷹取 裕成