2024年9月2日(月)

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聖書一日一章    詩篇 119篇113~128節

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私の望みのことで私を辱めないようにしてください。(116節)

作者は、自分の望みのことで、自分に恥をかかせないでくださいと祈りますが、その「望み」とは何でしょうか。文脈から考えると、神が自分を悪を行う者どもから守り、支え、襲われるときには救い出してくださるという望みです。そういう望みを持ち、人々にも話しているので、もしそうならず、自分が危害を受けるなら、そんな望みを持つとはばかだと嘲笑され、恥をかくことになるので、そうならないようにしてくださいと言うのです。

私たちも信仰によって望みを持っています。と言うより、信仰自体、目に見えないことで不明確なので、あるいは、未来のことで未確定なので、望みと言ってよいでしょう。ただ、漠然とした望みではなく、ほんとうにそうだと信じています。ですから、もしそれが真実でなければ、あるいは、約束通り実現しなければ、恥をかくどころか、パウロがコリント人への手紙第一15章19節で言うように、「私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。」そのため、どうか恥をかかせないでくださいと祈らないではおれません。しかし、私自身のこれまでの60年間の経験で、信じて望んだことに対しては、神は恥をかかせられませんでした。

それでは、私たちはどんな信仰の望みを持っているでしょうか。まず、創造主なる全能の神がおられるという望みです。すべての望みはそこにかかっています。また、神の子であるキリストが私たちの身代わりに死なれたが、復活し今も生きておられるという望みです。また、キリストがやがて再臨され、死んだ私たちを復活させ、永遠のみ国に迎えてくださるという望みです。また、今、聖霊がキリストを信じる私たちに与えられていて、私たちの心をきよめ、神に喜ばれる者に作り変え、永遠のみ国のために備えてくださるという望みです。また、いじめられたり迫害されたりしていても、神を信頼して忍耐していれば、神はそこから解放し、二倍の報いを与えてくださるという望みです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成