2024年9月12日(木)

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聖書一日一章    詩篇 126篇

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涙とともに種を蒔く者は、喜びながら刈り取る。(5節)

この詩は、バビロン捕囚からの解放後、多くの人が帰国し、エルサレムの神殿を再建した時のものです。「私たちは夢見ている者のようであった」、「私たちの口は笑いで満たされた」と、人々に喜びがあふれています。しかし、復興はまだこれからで、「ネゲブの流れのように、私たちを元どおりにしてください」と祈っています。「ネゲブ」とはイスラエル南部の荒野、「流れ」とはごく希に大雨が降ったときに流れる激流のことで、普通ではない流れのように、普通ではない神の力によって復興させてくださいという祈りです。

さて、5節では、「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る」と言います。有名な言葉ですが、苦労し涙を流しながら種を蒔くなら、喜びながら刈り取るという、苦労しているすべての人に希望を与える言葉です。

ところで、種を蒔くことは、袋の種をパラパラ蒔くだけですから、そんなに苦労はないでしょう。では、何が涙を流すほどの苦労なのでしょうか。私は、「ネゲブの流れ」という言葉から、荒れ果てた地での耕作を考えてのことだと思いました。捕囚中に、土地が荒れていたり、良い地が異民族に奪われていたりで、荒れ果てた地で耕作しなければならなかったのでしょう。みのるかどうかわからないのに、耕さなければならず、貴重な穀物を種として取り分けなければならなかったのです。わからない未来、見えない成果のために、犠牲を払うことが、涙を流す理由だと思いました。わからない未来、見えない成果のために犠牲を払うには、神の力と祝福を信じるしかないでしょう。

このことは、伝道についても言えます。伝道は、伝えれば、すぐにみのるというものではありません。長年、機会あるごとに聖書の言葉を送り、キリストについて伝え、興味ありそうな集会に誘い、愛を持って接し、祈り続けなければなりません。しかも、それだけしても、その人が信じるかどうかはわかりません。そのため、ついついへこたれてしまいそうになります。へこたれないで続けられるとすれば、主の力と祝福を信じるしかないでしょう。主は力ある方です。主は祝福してくださる方です。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成