2024年9月18日(水)

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聖書一日一章    詩篇 132篇

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ここにわたしは住む。(14節)

作者は、神殿で礼拝するためにエルサレムへ上る途上、昔、ダビデがその神殿を建てることをどれほど熱望したかを思い起こします。そして、「さあ、そこへ行って礼拝しよう」と言い、神に、神殿に来てくださるように、礼拝しようとする人々を受け入れてくださるように祈ります。さらに、神がダビデの熱心に答え、王権の永続と神殿の聖別を誓われたことを思い起こします。

さて、14節で、神が神殿を指して、「ここにわたしは住む。わたしがそれを望んだから」と言われます。軽く読み過ぎてしまいそうですが、考えてみると、神が住まいとして人の建てた建物を望まれるのは、意外なことだと思いました。というのは、人の建てた建物は、どんなに立派でも、神の目には粗末で不快だと思うからです。私たちにとって住まいは大事です。いつもいる場所ですし、そこから出て行く拠点ですし、帰って来て休み、精気を養う場所だからです。そこが不快だと、落ち着きませんし、元気が出てきません。ですから、住まいを探すときには、よく考え、一番快適で都合の良い物件を選びます。それを考えると、神が人の建てた粗末な建物を望まれるのは、意外です。それは、ダビデのご自身への愛と、住まいを見つけるまでは寝床に上がらないと言った熱い思いのゆえでしょう。

しかし、神はやがてほんとうに地上に住まれました。その住まいとはキリストです。キリストは、神の霊に包まれて生まれてこられましたし、神ご自身が天から「わたしはこれを喜ぶ」と言われました。キリストは、正真正銘、神が望まれるにふさわしい住まいです。

さらに驚くべきことは、神がキリストを信じる人を住まいとして望まれたということです。パウロはコリント人への手紙第一6章19節で、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮です」と言います。罪深い私たち、キリストを信じたことによって罪を赦されただけの私たちに、み子キリストが、そして神が、ご自分から望んで、「ここにわたしは住む」と言われるのです。

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