2024年9月19日(木)

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聖書一日一章    詩篇 133篇

 

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兄弟たちが一つになって、ともに生きることは。(1節)

 

信仰の兄弟としての兄弟愛のすばらしさを歌った詩です。そういう兄弟愛は、大祭司の任職の油のように尊く、エルサレムに降りる霧、それはヘルモン山から来たと考えられていて、乾燥した地域の人々にはとても気持ちの良いものでしたが、そのように気持ちが良いと言います。

 

さて、1節で、「なんという幸せ」、「兄弟たちが一つになって、ともに生きることは」と言います。人々が仲良く、もめることなく、助け合って、ともに生きることは、幸せなことです。しかし、そんなことはとてもできるものではありません。だれもが願う理想ですが、現実にはほとんど不可能です。

 

まず、欲しい物が不足しているときには、取り合いとけんかが起こります。より良い住む所、より高い地位、より良い仕事をめぐって競争が起こります。華やかな人や順風満帆の人に対しては、ねたみが起こります。わがままな人や人に迷惑をかける人に対しては、嫌悪感が生じます。どうしても考え方の違いがありますので、対立や衝突が起こります。次第に貧富の差が大きくなり、格差が生じます。人はみなしたいことが違うので、「一つになって」ということが重荷に感じられるかもしれません。

 

ですから、「兄弟たちが一つになって、ともに生きる」ということは、呼びかけてできることではありませんし、道徳教育でできることではありません。取り合いや競争やみたみがないためには、一人一人に対する神の恵みが大きく、一人一人が満たされていることが必要です。また、罪深く問題の多い人間がともに生きるためには、どうしても赦し合うことが必要です。そのためには、何度も赦さなければなりませんし、そんなに赦すことができるのは、キリストの、いのちをかけたとりなしによって自分の罪が赦されたことを知っている人だけです。使徒の働き2章で、キリストを信じた人々は、文字通り、「一つになって、ともに生き」ていましたが、それは人々が聖霊に満たされたときに起きた奇跡でした。聖霊の満たしを祈りましょう。

 

<pre>テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成

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