2024年9月23日(月)

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聖書一日一章    詩篇 137篇

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主の歌を歌えるだろうか。(4節)

作者は、バビロン捕囚の一人だったようで、「バビロンの川のほとり、そこに私たちは座り、シオンを思い出して泣いた」と、その悲しみを語ります。竪琴を弾いて歌う人だったようで、移送した役人たちから、「シオンの歌を一つ歌え」と言われたところ、「どうして異国の地で、主の歌を歌えるだろうか」と、拒否し、竪琴を木に掛けたというのです。信仰の国イスラエルでは、歌は、神を賛美する歌か、神と関係のある歌で、そんな歌を余興では歌えなかったのです。神のみ名を神を崇める以外の目的で唱えることは、神を冒瀆するようで、したくないというのは、神を愛する人共通の思いでしょう。

しかし、5節では、「エルサレムよ、もしも、私があなたを忘れてしまうなら、この右手もその巧みさを忘れるがよい」と、エルサレムへの愛着と忠誠を誓います。8節では、イスラエルを蹂躙したバビロンに対する罰を祈ります。これは、神を愛する気持ちとは別のもので、民族主義だと思いました。

キリストを信じる人は、パウロがテモテへの手紙第一2章4節で、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます」と言うように、どの民族の救いも望んでいます。また、ガラテヤ人への手紙3章28節で、「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです」と言うように、民族にこだわらず、けっして民族主義者ではありません。

しかし、私たちはそれぞれ、ある人々の救いのために遣わされています。同胞であることもあれば、外国人であることもあります。その人々の救いを祈っていると、愛するようになります。そして、愛すると、特別に大事にしたくなります。大事にすると、その人々をいじめる人々に怒りを持つようになります。その気持ちは民族主義にとても近いものです。そこで、私たちの愛が民族主義にならないために、キリストが「良きサマリヤ人」のたとえで教えられたことを覚えましょう。つまり、ある人々を隣人だと思うのではなく、自分とかかわるすべての人に対して「隣人になりなさい」という教えです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成