2024年9月25日(水)

_____________________________________________________________________________

聖書一日一章    詩篇 139篇

_____________________________________________________________________________

私のうちに、傷のついた道があるかないかを見てください。(24節)

ダビデは神について思い巡らしています。1節から6節では、神の全知、つまり何でも知っておられること、とくに彼のことについて何でも知っておられることを述べます。7節から12節では、神の遍在、つまりどこにでもおられること、海の果てにも、天にも、よみにもおられることを述べます。神がどこにでもおられるということは、彼をどこからでも見ておられ、すべてを知っておられるということです。13節から16節では、神が彼を母の胎で組み立てられたこと、それゆえ、奥の奥まで知っておられることを述べます。19節からはがらっと変わり、神に敵対し人の血を流す悪い輩をさばいてくださいと祈ります。すべてを知っておられる神が、悪者の悪事も知っておられると信じ、さばきを願っているのでしょう。23節と24節では、自分を調べてくださるようにと祈ります。「神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに、傷ついた道があるかないかを見て、私をとこしえに導いてください。」悪者のさばきを祈る上で、自分自身に責められるところがないか確かめているのです。自分自身が悪を行っているなら、そんなふうに祈る資格がないし、祈っても聞き入れてもらえないからです。

それにしても、自分に責められるところがないかどうか調べてくださいという、よくもこんな祈りができたものです。調べる相手が警察なら、法律に違反していなければ、心配ありません。しかし、相手が神なら、そうは行きません。何もかも知っておられ、心の中の思いまで知っておられるからです。調べられれば、ぼろがいくらでも出てきます。それにはだれも耐えられません。みな厳しく責められます。神の全知やさばきは、自分を脅かす悪者に向けられれば、とてもありがたいものですが、自分に向けられるや、とても恐ろしいものになります。さばきの日に、人々が山に向かって、私たちの上に崩れ落ち、私たちをおおえと言う、その気持ちがよくわかります。そのことを思うと、キリストが私たちの罪に対するすべての責めを自ら受けてくださって、ほんとうに良かったです。私たちは、キリストがおおってくださっているので、安心して神に見られ、知っていただけるのです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成