2024年9月28日(土)

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聖書一日一章    詩篇 142篇

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私のたましいを牢獄から助け出してください。(7節)

ダビデはこのときもいのちの危険にさらされていました。ここでは危険にさらされることよりも、そのことによってたましいが弱っていることを苦にし、神に助けを求めています。2節では、「自分の嘆きを注ぎ出し」と言うように、たましいは嘆かないではおれませんでした。3節では、「私の霊が私のうちで衰え果てた」と言うように、たましいが衰え果てた状態で、そのため、体は病気ではないのに、立ち上がることができませんでした。6節では、「私はひどくおとしめられています」と言います。おとしめられているということは、人々が彼を蔑んだり、ののしったり、嘲ったり、責めたりしていたのでしょう。それは死にたくなるほどつらいことです。それはそうなのですが、暴力とは違って、肉体的には、あるいは物理的には、何の被害も受けていません。唯物論者なら、そんなもの屁にもならないと言うでしょう。なぜそんなに傷つくのでしょうか。やはり、人間にはたましいがあり、たましいが傷つくのだと思います。たましいは本来は限りなく尊いものなので、蔑まれると、その尊さゆえに傷つくのです。7節では、「私のたましいを牢獄から助け出してください」と言います。たましいが牢獄に入れられているように、自由や明るさを失っていたのです。私たちもたましいがそんな状態になる時があります。望みを失い、暗くなり、弱くなり、意欲も気力も出てこなくなり、傷つき、生気を失い、自由や明るさを失ってしまう時です。

しかし、私たちはたましいを癒してくださる方を知っています。ペテロはその手紙第一2章24節で言います。「キリストは自ら十字架の上で私たちの罪をその身に負われた。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし、今や、自分のたましいの牧者である方のもとに帰った。」キリストを信じる者のたましいは、キリストの十字架の贖いによって、生き返りました。牧者であるキリストに従っていくことによって、もっともっと癒されていきます。癒されれば癒されるほど、外的な状況に影響されなくなるように思います。やがて完全に癒される時がやって来ます。そのときたましいはどんなに自由になることでしょうか。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成