2024年9月30日(月)

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聖書一日一章    詩篇 144篇

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人は息にすぎない。(4節)

ダビデは、ほかの詩でと同じように、神を「岩」、「やぐら」、「盾」などと呼んで、不動の支えであることを言い表します。3節では、「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」と言い、限りなく偉大なのに、小さな人間を顧みられる慈しみを言い表します。5節から11節では、敵や大水の危機から、天から稲妻を放って降りて来て救い出してくださいと祈ります。12節以下では、子どもたちの成長と豊作と家畜の繁殖を祈ります。

さて、4節では、「人は息にすぎず、その日々は影のように過ぎ去ります」と言います。夢に出てきた人なら、目を覚ませば消え去って、影のようなものですが、現実の人は百年近く生きますし、けっこう存在感があります。それなのに、息に過ぎない、影のようなものだとは、どういうことでしょうか。それはあくまで神の永遠の存在に比べてということでしょう。創世記によると、神が「光よ、あれ」と言われると、光ができ、神が命じられると、水から大陸やあらゆるものができました。あたかも、神が息をふっと吹きかけられると、何でも出現するという具合です。詩篇103篇29節には、生き物について、「御顔を隠されると、彼らはおじ惑い、彼らの息を取り去られると、彼らは息絶えて、自分のちりに帰ります」と言います。つまり、神がある生き物の存在を望まれなくなると、息絶えて、ちりに帰るというのです。言い換えると、神が存在を望まれている間だけ生きているということです。

それは、人間も同じです。神が存在を望まれている間だけ生きていて、望まれなくなると、死んでしまうのです。人間が神の意志によってだけ存在し、生きていると言うこともできます。その点、キリストがヨハネの福音書5章24節や6章47節で、「わたしを信じる者は永遠のいのちを持っています」と言われたことは、大きなことです。私たちがキリストを信じている限り、神は私たちに、永遠に存在するようにとの意志を持っておられる、だから、その意志によって、私たちは永遠に存在し続けるということです。私たちは、キリストを信じている限り、もはや息や影のようなものではありません。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成