2024年10月2日(水)

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聖書一日一章    詩篇 146篇

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霊が出て行くと、人は自分の土に帰る。(4節)

作者は、苦境のときに、君主の助けを期待しないように、いつ死ぬかわからず、死ねばその政策も消えてしまうからと言います。むしろ、神に期待するように勧めます。神は天地万物の造り主で、虐げられている者のためにさばき、飢えている者にパンを与え、捕らわれ人を解放し、目の見えない者を見えるようにし、寄留者、みなしご、やもめを支えられるからだと言います。

さて、4節では、「霊が出て行くと、人は自分の土に帰る」と言います。この言葉は、創世記2章7節の、「主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」に基づいています。創世記は、人間は、物質的には土に過ぎず、神の息を吹き込まれてはじめて生きた人間となったと言います。ということは、神の息すなわち霊が出て行けば、もとの土に帰るということです。ということは、人間は霊が宿っている間だけ生きている、つまり、いのちは霊が宿っていることだということです。これは現在の多くの人が抱くイメージと大きく違います。多くの人は、体細胞の働きによる呼吸や消化などの生命活動をいのちだと考えています。しかし、本当は、霊が宿っていることです。肉体はその霊の道具であり、生命活動はその現れです。いのちがかけがえないのも、その霊のゆえです。肉体も大切ですが、霊はもっと大切で尊いものです。

ところで、パウロはコリント人への手紙第二5章9節で、霊が「肉体を離れ」たときのことについて、10節で、「私たちはみな、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければなりません」と言います。この詩では、人が死んで「霊が出て行」った後の肉体のことを語っていて、それはそれで土に帰り、むなしいのですが、出て行った霊は、キリストのさばきの座でふさわしい報いを受けるというのですから、そのほうが大変です。それも「肉体においてした行い」つまり生きているときにした行いに応じてさばきを受けるとすれば、今、霊の備えをしなければなりません。生きているうちに自分の霊のために、罪の赦しと救いを得ておかなければなりません。

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