2024年10月9日(水)

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聖書一日一章    箴言 3章

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長い日々と、いのちと平安の年月が、増し加えられる。(2節)

箴言の編者は、神に祝福されるための知恵を子を諭すように教えます。「心を尽くし主に拠り頼め、自分の悟りに頼るな」(5節)。「自分を知恵ある者と考えるな」(7節)。「懲らしめを拒むな。主は愛する者を叱る」(11節)。

さて、この章では、そのような知恵に従うときに、神の祝福として、実際的な幸福が約束しています。「長い日々と、いのちと平安の年月が、あなたに増し加えられる」(2節)。「あなたの倉は豊かさで満たされ、あなたの石がめは新しいぶどう酒であふれる」(10節)。主が「足が罠にかからないように、守ってくださる」(26節)。しかし、キリストが来られて、霊なる神を示し、霊なる神との交わりの道を開き、霊的な礼拝を教え、霊的な神の国を始められました。霊的なものつまり目に見えないものは、パウロがコリント人への手紙第二4章18節で、「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続く」と言うように、永遠ですばらしいものです。

それでは、キリストを信じる者は実際的な幸福を求めてはいけないのでしょうか。そんなことはないと思います。キリストはマルコの福音書10章29節と30節で、「わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます」と言われました。キリストを信じる者は、永遠のいのちはもちろん、「今この世で」、実際的な幸福を受けることができます。そのことはみ言葉によって信じることができますが、私は当然のことだと思います。たとえば、自分の悟りに頼っていると、どんな人も必ず過ちをしますから、大問題が起こるでしょう。主に拠り頼み、祈りつつしていると、きっと避けられるでしょう。たとえば、人間には自分勝手な性質があるので、争いはいつでも起こり得ます。争うなら、キリストが「どんな国でも争えば荒れすたれ」ますと言われたように、必ずすたれます。逆に、主に拠り頼み、すべて主が与えてくださると信じ、持っているものは主が与えてくださったものと考え、隣人に分けるなら、争いは起こらないでしょう。

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