2024年10月16日(水)

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聖書一日一章    箴言 10章

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勤勉な者の手は人を富ませる。(4節)

15節には、「富む者の財産はその人の堅固な城。貧しい者の恐れは自らの貧困」とあります。富む人にとって、財産は堅固な城のように頼もしいし、貧しい人は、お金が無くなることを恐れて、びくびくしているというのです。では、富んでいることが良いのかというと、そうではありません。16節には、「正しい人の報酬はいのち。悪しき者の収穫は罪」とあります。同じ報酬でも、正しい人にはいのちとなるが、悪い人には罪にしかならないというのです。富について、キリストは、富と神との両方に仕えることはできないと言われ、金持ちが神の国に入るより、らくだが針の穴を通るほうが易しいとも言われました。富を求めるあまり、神を軽んじることが多いからです。

ところで、4節には、「無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ませる」とあります。私はこの節から、富んでいることよりも、勤勉であることのほうがずっと良いと思いました。パウロはローマ人への手紙12章11節で、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」と言います。富は信仰を妨げますが、勤勉であることは、信仰的にも間違いなく良いことです。しかも、勤勉であれば、貧しくなることがありませんし、勤勉は富と違ってなくなることがありません。しかし、私は二種類の勤勉さがあることに気づきました。一つは本当の勤勉さで、愛から出て、神と人とのために喜んで働くことです。これこそほめられる勤勉さです。しかし、このような勤勉さは私にはありません。私にあるのは、「貧しい者の恐れ」から来る勤勉さ、つまり、よく働かないと、生活できなくなるという恐れから駆り立てられる勤勉さです。恐れがなくなると何もしなくなるので、本質的には無精です。

そこでどうして無情なのかを考えてみました。その原因の一つは、肉体の弱さだと思います。肉体が弱く、何をするにもしんどいので、ついつい億劫になり、楽していい目だけしたいというずるい発想になります。愛から出て、神と人とのために喜んで働くためには、新しく生まれ変わることが必要ですが、同時に、肉体の癒しも必要だと思います。無精な人のために、自分ではどうにもならないことですので、主の救いと癒しを祈ります。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成