2024年10月26日(土)
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聖書一日一章 箴言 20章
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幼子でさえ、何かをするとき、その行いが純粋かどうか、
真っ直ぐかどうかを識別する。(11節)
生まれてきた子どもは何も知りませんから、お箸の使い方から、服の着方、挨拶の仕方、物の数え方、何が危険で、何はしてはいけないかまで、親が教えます。ですから、親が絶対のはずですが、親がうそをついたり、ずるいことをしたり、教えたことと矛盾することをしたり、道徳に反することをしたりすると、「どうしてそんなことをするの」と疑問を呈することがあります。また、社会の中にあるおかしなことに対して、親も気づかないのに、気づいて、「なんでそんなことをするの」と言うことがあります。大人は、幼いのに、どうしてそんなことがわかるのかと驚きますが、幼くても、「その行いが純粋かどうか、真っ直ぐかどうかを識別する能力があるのです。これは、神が人間に生まれながらに与えておられる能力で、「良心」と呼ばれるものです。残念なことに、大きくなり、社会に馴染むにしたがって、この感覚はだんだん鈍感になっていくように思います。ですから、「幼いのに」ではなく、「幼いからこそ」、その行いが純粋かどうか、真っ直ぐかどうかを識別することができるのです。
幼な子が良い人と悪い人を見分ける能力には驚きます。純粋に子どもが好きで、子どもを楽しませたいと思う人には、寄って行きますが、仕事であるいはお金のために仕方なく相手をする人、親の手前、体裁のために相手をする人には寄って行きません。それを考えると、キリストのもとへ幼な子たちが寄って行こうとしたことが、とても自然に思えます。幼な子たちはキリストの優しさと混じり気のない心を見抜いたのです。それに対して、弟子たちは、「こんな所に子どもが来ちゃいけない」と、彼らを叱りましたが、当時の社会の常識、固定観念に囚われていたのです。そのとき、キリストは、「神の国はこのような者たちのものなのです」と言われ、幼な子のような心を持つように勧められました。キリストによって幼な子のような心を持たせていただき、何かをするとき、その行いが純粋かどうか、真っ直ぐかどうかを識別できるようになりましょう。
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