2024年10月28日(月)
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聖書一日一章 箴言 22章
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心のきよさを愛し、優しく話をする者は、王がその友となる。(11節)
「心のきよさを愛し、優しく話をする者」と言えば、とても気持ちの良いすてきな人のような感じがします。王のような高貴な人が友となるというのもわかります。そんな人になれれば、幸いですし、なりたいと思います。
しかし、「心のきよさ」や「優しく話をする」ことは、人間の欲望と背反することです。たとえば、16節に、「自分を富ませるために貧しい人を虐げる者、富む人に与える者」とありますが、お金を儲けたい人は、人々を低賃金で働かせ、資産家にサービスして媚を売るというのです。良い人のように見せて、そういうことをするのは「心のきよさ」と背反します。たとえば、24節に「怒りっぽい者」とありますが、だれでも、痛い目にあわせた人には怒りを押えられません。そういうことは、「優しく話をする」ことと背反します。
人間は基本的に欲望に反することはできないものですので、そんな欲望と背反するようなことは、できないはずです。しかし、キリストを信じる人には、できるように思います。意志が強いからではありません。普通の人間の欲望とは違う欲望あるいは願望があるからです。キリストはマタイの福音書5章で、「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見る」と言われました。そう言われたのは、信じる人に神を心の目で見たいという願望があるからです。彼らはそのために「心のきよさ」を求めるのです。また、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれる」と言われました。そう言われたのは、信じる人に神の子どもでありたいという願望があるからです。彼らはそのために「平和をつくる」こと、怒らず、争わず、「優しく話をする者」であることを願うのです。また、信じる人にキリストのようでありたいという願望があります。そのために、キリストのように「心のきよさを愛し、優しく話をする者」でありたいと願うのです。
いつそんな願望が与えられたのでしょうか。キリストを信じたときに、新しく生まれましたが、そのときです。欲望や願望も新しくなったのです。
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