2024年10月31日(木)
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聖書一日一章 箴言 25章
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自分の霊を制することができない人は、打ち破られた町。(28節)
「自分の霊を制することができない」ことは、「感情を制することができない」こととは違います。たしかに、感情を制することができない人は、怒りを押さえることができなくて、けんかをしてしまったり、悲しいと何も手につかなかったり、嬉しいと有頂天になったりします。その点、冷静な人は、感情が高ぶっても、自分の言動の結果を予想して、感情を押えます。それは一見良いようですが、感情を出さないので、冷たいとか、何を考えているのかわからないとか思われて、親しい関係を持ちにくいかもしれません。しかし、ここで言う「霊」は感情のことではありません。「霊」は文字通り、霊あるいはたましいのことです。そして、「自分の霊を制する」必要があるように言われていますが、その霊が問題です。というのは、聖書は、すべての人の霊が曲がっていて、神に反していると教えているからです。たとえば、パウロはエペソ人への手紙2章3節で、「私たちもみな、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、生まれながら御怒りを受けるべき子でした」と言います。その曲がっている霊に動かされている点では、感情的な人も冷静な人も同じです。感情的な人は、直接的に動かされ、冷静な人は、自分の汚い利益を計算し、それに引かれて動かされます。
ですから、「自分の霊」を制しなければなりませんが、どうやって制することができるでしょうか。まず、「自分の霊」に問題があることを知ることでしょう。人は「自分の霊」がかわいいので、その問題を認めようとはしませんが、認めるところから始まります。次に、一番大事な点ですが、ペテロがその手紙第一3章15節で、「心の中でキリストを主としなさい」と言うように、キリストを主として受け入れ、心の王座を明け渡すことです。私たちは「自分の霊」が心の王座を占めているので、いかなるものもそれを制することができませんが、キリストに明け渡すことによって、キリストが制してくださいます。さらに、心の王座をキリストに明け渡すと、聖霊がそこに住んでくださり、「霊」を制するだけでなく、造り変えてくださいます。
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