2024年11月9日(土)

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聖書一日一章    伝道者の書 3章

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天の下のすべての営みに時がある。(2節)

著者は1節で、「天の下のすべての営みに時がある」と言って、生まれる、死ぬ、泣く、笑う、求める、あきらめる、愛する、憎むなどに時があることを述べます。神を知らない人は、世の中の出来事は、人の思惑と偶然とがからみ合って起こる、偶然の事以外は、人の知恵と努力によって何とかなると考えます。偶然の事も確率的に予測できると考える人もあるでしょう。しかし、全能の神を信じる人は、神がこの世界を動かしておられるので、すべての出来事は神の意志に添って起こると考えます。キリストがマタイの福音書10章29節で、「雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません」と言われる通りです。すべての出来事が神の意志に添って起こるのなら、その出来事に神の定められた時もあるはずです。

さて、すべての出来事に神の定められた時があると言うのですが、神が備えられた機会があるという意味でしょうか。神があることが起こるように望んでおられ、そのためにあらゆる条件を整えておられる時で、それなら、人が神のみ心に添って行動するならば、すべてがうまく行くはずです。そうだとすると、その時を知って神のみ心に沿って行動することが知恵だということになります。しかし、私は、すべての出来事に神の定められた時があるの意味は、そうではないと思いました。そうだとすると、「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」はおかしいからです。むしろ、神が永遠のご計画において、あることが起こるように絶対的に定めておられる時のことだと思います。その意味では、その時は、人が知ることができませんし、それに対処することもできません。生まれる時や死ぬ時がその典型的な例です。ですから、11節で、「人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない」と言い、14節で、「それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない」と言うのです。人間には知ることもできず、対処することもできないなら、何の意味があるのでしょうか。自分に起こるあらゆる出来事を、良いことも悪いことも、神が計画されたことで、神の計り知れない思いと愛情があり、神はそのことをきっと益にしてくださると信じることができます。それこそ知恵です。

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