2024年11月20日(水)
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聖書一日一章 雅歌 2章
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あの方が来られる。山を跳び越え、丘の上を跳ねて。(8節)
恋する若者と娘が相手を思う言葉を交互に語りますが、ここは娘の言葉です。
8節では娘が、「私の愛する方の声がする。ほら、あの方が来られる。山を跳び越え、丘の上を跳ねて」と言います。若者が娘の所へやって来る様子を、かもしかが跳ねながら丘を越えて来ることに例えたのかもしれません。彼に来てほしいという願望からの想像かもしれません。愛し合う人は離れていると寂しく、とくに話をしたい時や心細い時には会いたいもので、山や丘を跳び越えてでも来てほしいという気持ちはよくわかります。しかし、実際には、距離だけではなく、休みが取れないとか、予定が合わないとかで、なかなか会えないものです。また、せっかく会えても、会えたら会えたで、わがままが出てけんかをしてしまうこともあります。人間はつくづく不便なものです。
そのように、人間は、愛し愛されることを望み、会いたいときに会うことを願っていますが、現実にはいろいろな壁があります。しかし、キリストはその願いをかなえてくださいます。キリストは、愛さないではおれないすてきな方で、愛しにくいわがままな私たちを心から愛してくださいます。キリストは無限に高い天で神の右の座に着いておられますが、私たちがそばにいてほしいときに、そばにいてくださいます。ヨハネの福音書14章18節で、キリストは弟子たちに言われました。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。」ここで、「戻って来ます」とか「わたしを見ます」とかの意味は、そのすぐ後で、「わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」と言われるように、信じる人の内に住まれることです。また、マタイの福音書18章20節では、「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいる」と言われます。一人一人とともにおられるだけでなく、何人かでキリストと交わりたいと思って集まるなら、そこにいてくださるというのです。これはまさに、私たちが会いたいときに、天から、山を跳び越え、丘の上を跳ねて、来てくださることです。
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