2024年11月21日(木)
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聖書一日一章 雅歌 3章
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愛がそうしたいと思うときまでは。(5節)
ここでは、娘がある夜の出来事について語ります。夜、恋する若者がいなかったので、寝ても心配で、起きて出かけ、町を行き巡って探したところ、夜回りたちに見つかったので、彼のことを尋ねたが、わからず、そこを通り過ぎた所で見つけ、家に連れ帰ったというのです。彼女の夢の中のことでしょう。6節以下のソロモン王の婚礼の行列の様子は、文脈がよくわかりません。
さて、5節は、娘がエルサレムの娘たちにお願いしていることですが、「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは」と言います。この言葉が心に留まりました。愛は内から自然に起こってくるもので、「愛しなさい」と命じられて起こるものではなく、また、人が揺り起こしたり、かき立てたりできるものではない、そうすることはかえって、妨げることになると思いました。好きで結婚した夫婦でも愛が冷えてしまうことがあります。そんなとき、「夫婦だから、愛し合おう」と言っても、ほとんど意味がありません。それより、相手がいやなことをしないように気をつけるほうが、ずっと効果があります。神はモーセを通して、ご自身を心から愛することと隣人を自分と同じように愛することを命じられました。キリストもそう教えられました。しかし、それは方向を示されただけで、愛することを強いられたわけではありません。
神はアブラハムに一度、ご自身を何よりも愛しているかを試されたことがありました。一人息子のイサクを献げるように命じられたことです。しかし、それは、アブラハムが神から溢れる祝福を受け、百歳の老人が子を持つという奇跡を体験し、心から神を愛していたからです。
キリストも、愛することを命じられたり強いられたりされたことはありません。キリストは、信じる人々を愛し、養い、豊かにして、自然にご自身を愛するようにされます。ペテロに一度だけ、「わたしを愛するか」と尋ねられました。それは、3年間ペテロを特別に愛し、彼のためにも十字架で死んだ上で、ペテロが感謝に溢れているときのことです。
テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944 鷹取 裕成