2024年11月24日(日)

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聖書一日一章    雅歌 6章

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産んだ者にはまばゆい存在。(9節)

前の章からの流れからすると、1節はエルサレムの娘たちの言葉で、「あなたの愛する方はどこへ行かれたのでしょう」と尋ねます。娘はそれに答えて、「花壇へ下って行かれました」と言い、「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの」とその愛する気持ちを言い表します。4節からは、今度は青年が娘の美しさをほめます。

青年は言葉を尽くして娘をほめていますが、8節と9節では、「おとめたちは数知れない。汚れのないひと、私の鳩はただ一人」と言います。王の妃や側女は国中から選りすぐられた美人のはずですが、そんな女性たちと比べても、完璧な美しさを持っているのは彼女ただ一人だというのです。あきれてしまいます。恋は盲目と言いますが、恋をすると、相手以外のものが見えなくなって、相手だけがすばらしいと思えるのでしょう。ほかの者からはおかしく見えます。しかし、そういうことがなければ、結婚という大きなことはとてもできないでしょう。

ところが、9節では、急に、彼女の母親にとって彼女がどんな存在かを思い、「母にはひとり子、産んだ者にはまばゆい存在」と言います。彼が彼女を美しいとほめることには、はたの者には共感しにくいところがありますが、この、産んだ者にとって子がまばゆい存在だというのは、素直に共感できるのではないでしょうか。子どもを産んだことのある人は痛いほどわかるでしょうし、ほとんどの人は母親にそんなふうに見られて育ってきたのではないでしょうか。

母親の子に対するこの気持ちは、神が私たちをなぜこんなに愛されるのか、優れているわけでもなく、特別に美しいわけでもないのに、私たちをなぜこんなに愛されるのかを理解させてくれます。神は私たちを産み出した、つまり、創造し、いのちの霊を与えられた方です。それゆえ、私たちは神にはまばゆい存在なのです。こんなつまらない者をそんなふうに思ってくださるとは、ほんとうにありがたいことです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成